蝉取り少年

ニイニイゼミ むしたち

 小学校に上がる前だったと思う。私は近所では有名な虫好き少年だった。いつものように、裁判所の裏庭で蝉取りをしていると、一人の少年に話しかけられた。自分より1,2歳上の男の子だった。その子も私と同じように、虫好きであった。自分で言うのもおかしいが、虫好きは少し普通の子と違う。要するにかわっているのである。そのため、この子のように話が合うのは、私にとって非常に珍しいことであった。
 詳しくは覚えていないが、話は幼虫採集のことから、羽化の様子から広範囲に及んだと思う。そのうちに自慢話になり、アブラ、ミンミンと移り、まだ自分の採ったことのないニイニイ、ヒグラシやツクツクなどの話に入っていった。「小さくて早いし、長い棒のついた網が必要だ。」と私が言うと、「そんなのいらないよ。1本棒でいいよ。いっぱい採れるよ。」その子が言った。「うそダー。」と言うと、「今からでも見せてやる。」というのである。「でも、見せると採るんじゃないか。」「見せてくれないと信用できない。」など話をしているうちに、「じゃ、近くだから、案内してやる。」というのである。わたしは、半信半疑のままその子について行った。


 その子に案内されたのは、片平の東北大学の敷地内の薄暗い場所だった。裁判所からは目と鼻の先である。そんな近くに桃源郷はあったのだ。昼間なのに薄暗いところで、私はこのような環境に足を踏み入れたことがなかった。その子は、「いっぱいいるよ。来てごらん。」と言う。その子に付いていくと、足元から、次から次へとセミが飛び出した。ツクツクとかヒグラシであった。「すごい、信じられない。こんな低いところに、たくさんいる。」独り言を言いながら、しばらくの間動けずにいた。記憶にあるのはここまでである。その後のことは思い出せない。あの頃の私にとっては、ニイニイ、ツクツク、ヒグラシは宝物以上だったと思う。不思議ではあるが、その場所へそれ以降行くことはなかった。
 これは、私の経験した不思議な出会いである。蝶に限らず様々なものに通じそうだ。自分の知っていることをベースとして考えを積み上げることが多いが、それにとらわれない考えも必要だ。決め付けることなく、謙虚に可能性を一つ一つ吟味しなくてはならない。知らないところに答えがある可能性がある。私は昆虫の研究者になっていたら、彼から教わったことを土台に研究を進められたかもしれない。しかし、私は、その道を断念し、文系に進み、今ぼちぼちと暮らしている。60歳を過ぎて、遠い昔のことを思い出した。その時以来、その子とは会っていない。1度会っただけの少年であるが、今も鮮烈に覚えている。

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